私だってまだその頃は二十代前半で、花もはじらう美少年、というほどでもないが、この女優さんの前で、負けて恥をかきたくないと思った。
そう思ったとたんに、きゅっと身体が固くなった。これがいけないので、勝負事はまず心を闊達にしなければならない。緊張しすぎても、たるみすぎても駄目だ。
あとで考えれば、最初から丁寧に打って、チャンスをのがさずアガるようにしようと思ったことがすでに、私が固くなって打っていた証拠かもしれない。
麻雀小説の中から心に響いた一節を紹介しています。
私だってまだその頃は二十代前半で、花もはじらう美少年、というほどでもないが、この女優さんの前で、負けて恥をかきたくないと思った。
そう思ったとたんに、きゅっと身体が固くなった。これがいけないので、勝負事はまず心を闊達にしなければならない。緊張しすぎても、たるみすぎても駄目だ。
あとで考えれば、最初から丁寧に打って、チャンスをのがさずアガるようにしようと思ったことがすでに、私が固くなって打っていた証拠かもしれない。
とにかく勝負事という奴は、女性には向いていない。
・気が小さい。だからすぐにアツくなる。
・大局を考えない。だから要領が悪い。
・創造性に乏しい。だからやることが常識の範囲を出ない。
特に麻雀のような、全的な能力を要求されるゲームには、弱点が現われてしまう。
ここまで書いて、ひょいと思いついたが、この傾向は主として家庭におさまっている一般女性を対象にしていえることで、諸事積極的な今の若い人たちには当てはまらないかもしれない。
だがな、トビ、お前にこれができるか。空野をコロすのは俺だ。俺は空野に勝つだろうが、死ぬさ。勝つということは、こういうことなんだぞ。勝つ方も、負ける方も、同じように何かを失う。勝つ者の方が、大きいものを失うことが多い。だが、勝ちは勝ち、負けは負けだ。天才は居ないから、負ける者の何倍も大きいものを失う覚悟がなければ、勝つことなんてできないのだ――
「これまでの実績によるとね、ひと月の買いが、平均、二億五千万くらいだ」
ギッちゃんの顔から笑いが消えて、いい表情になった。この男は、部屋の中に自分一人になったときか、大勝負に直面したときか、それ以外のときはいい顔つきにならない。
博打一本で生きている連中は、破滅覚悟でしのいでいるのだから、したがって市民に対するときのような配慮は必要ない。それをしたらかえって失礼になる。勝ち盛っていれば拍手をする。破滅すれば、笑う。どちらにしても自業自得なので、面白おかしく見守っていればよい。
なにかありそうな気がしたんですよ。私なりに、何かを求めて、何かになれるかと思ったんです。文学、女、ギャンブル――、でももういいんです。結局、俺は生まれた所の土になるので、それでいいんだっていう気持です
トビがせっぱつまっていて、私がいくらかでも余裕があるとすれば、第一に考えられるその理由は、運、であろう。自分自身ではもうすこし他の理由もあるように考えたいが、結局は、運にほかならぬ。
千葉で会社をやっているとかいってはいたが、私のところに現われた限りの感じでは、野やくざ以外の何者でもない。私は元来、社会的地位には無関心の方で、会社の社長が野やくざより偉いというふうにきめこんでいるわけではない。
早いテンポで打つというのは、つまり、クサっていて手造りや相手との対応が大味で雑になっており、大物だけを狙って果たさず、このまま沈んでいくということである。
もともと私は、本質的には、謹慎生活が身に合っているのであって、謹慎に入る前後あたりから身も心も伸び伸びしてきて、ああ、謹慎してよかった、と思いはじめるのである。
身体が利かないという口惜しさはもう慣れている。もう今では、これが本当の自分だという気がして、いっそおちついた気分になるのである。これ以上に仕方がないのなら運命を甘受するだけだ。へこたれるものか、と思うのである。
一見して、暗い男だな、と思った。
柳に風と受け流すソツのなさを心得ており、人をそらさない話術も持っている。だが、どこか暗い。不規則で不安定な生活のせいばかりではない。私は自分が暗いから、こういう要素にいち早く眼がいく。
整列する、弁当を食べる、トイレに行く、こういう皆が抵抗なくやってることが駄目なんだよ、恥ずかしくてできない。未だにこいつは治ってないね。電話でモシモシと言うとか、道で会ってコンニチワと挨拶するとか――自分にそんな他人と同じ行動をする権利があるのかって妙な抵抗感でね
いや、親父が一番駄目だったんだろうな、あんなに間が悪く震災なんかにぶつかっちゃうなんてのは。
どんなに放蕩しても決して一流にはなれないタイプなんだよ
一定のことをやりだせば、一定の住居や、定着した女が必要になる。対人関係も定着せざるをえない。表札というものが、郵便物や訪客のために必要で、入口に呈示しなければならなくなったとき、はずかしさで居たたまれなかった。表札というものにヴィヴィッドな要素がまったくない。こんな男になるために生きてきたのではないという気がする。
たとえばラーメン屋で働くだろ。大将はよくしてくれるよ。給料もちゃんとくれる。だが、それは便利だからで、俺の将来を考えてくれるとか、俺を愛してくれるとか、そういうこととは別問題だ。便利だから、給料をくれる。俺はその場その場の給料のために、忠実になる。ある日そいつに我慢がならなくなるンだ。俺は最新式の道具じゃねえ。便利だからってだけで感謝されてるだけじゃ不足だ
本当に勝ち抜く奴は、生まれたときからいかなる意味でも祝福されたことのない奴でなければならない。
誰を愛しても、誰に愛されてもいけない。
ノートに向かっていると、人に会いたくもならない。わずらわしい神経を使わなくてすむ。死ぬほど退屈しているという感じもないではないが、実は、こういうクソの役にも立ちそうもないことを営々としてやるのが自分には一番ふさわしいのだと思うときもある。
「俺は二重人格なのかな――」
「どうして――?」
「今でもまだ小説を書いてみたい。すごい博打も打ってみたい。何にでもなりたくてしょうがない」
しかし実際はこんなふうにいうべきであったのかもしれない。何をやったって生きていくことはできる。しかし何にもなれやしないし何をやったらよいのかもわからない。どんなふうに生きれば自分の気持に本当に沿うことができるのか見当もつかない。
理想は遠くむなしいものだ。人はいつも理想と現実の中間点で葛藤する。
その中間点を少しずつ理想の方に近づける努力こそ大切なのだ
森サブはいつものようには黙りこまなかった。
無口な男というやつは、気が向くとひどく雄弁になるものである。
考えてみると、自分が本当にやりたいことをやろうとするとき、いつも最低の条件でことにのぞんできたような気がする。無理を押してしなければ、好きなことはできない。無理がいやなら、つまらないことばかり押しつけられて我慢しているだけだ。
一番辛いことは、誰にも愛されないということだ、とまず実感し、同時に、一番烈しい生き方は、誰にも馴れずに生きることではあるまいか、と思った。あの頃は本気でそう考えていた。
将来もなく、友もなく、居場所もない。今でも私は、逃走犯人の如く社会から完全に孤立してしまった者を見ると、反射的に、市民の方にではなく、その人間の方に心が吸いついてしまう。
若かったから、何にも隷属しない形で辛うじて生きられたのだろう。現在はがんじがらめに隷属させられている。そのうえ、隷属しなければ生きられないという常識まで身につけている。
会社を麻雀屋に見立て、経営者や営業上の客などを旦ベエに見立てていた。経営者は私たち社員の労働力をカモり、私たちは経営者をカモり、会社というところはそれで統一がとれているのだろうと思いこんでいた。
どこも皆安給料だったが私に不服はなかった。私は一方できわめて卑屈によく働いたが、同時に又きわめて放縦で、遅刻欠勤のし放題、会社のルールはまったく守らなかった。足を洗うことのみを考えていたつもりだが、その実、雀ごろ時代とすこしも変らぬ態度で世間に向かっていたらしい。
一日一杯、かけソバを喰うだけで我慢した。普通に喰っていては食欲を満たすことはできないから、卓上に出してある唐辛子の容器の蓋をとって、ざァッと全部、ソバの中へあけてしまう。そうして箸で、むちゃくちゃにかきまわすのである。
だから私は、十代の未熟期をのぞいて、女を深く愛したことはない。
いつも不幸だが、不幸であることを不服に思ったこともない。
当時勤めていた会社の上司が、私にこんなことをいったことがある。
「君は、恐縮しながら図々しいことをやる男だね」
私はこれまでの年月を通じて、他の人間たちと自分を比較して劣等感を抱いたことはない。しかし、かくあらねばならぬ生、というものを漠然と空想していた。
かくあらねばならぬ生、は隅から隅まで明快なものではなかったが、それは糞の塊りのようにいつも私の腹の中に在り、私を怯えさせ、恥じいらせていた。
ちょうどメーデーの日で、電車の中にはプラカードなどを持った若者がたくさん眼についた。大勢との連帯感に染まって幸せそうな奴等だ。しかしまァ、大勢の中に居た方がよい場合もあるし、一匹狼の方が気楽な場合もある。両方いいところだけはとれないからどちらか一方をえらばなくてはならない。
家だの会社だの国家だのなんて、みんな小汚ねえや。立派そうな顔して結局手前等のことしか考えてない。僕は、家も会社もいらない代りに、偉そうな顔もしないのさ
雀歴七年の雀士といえば、今では掃いて捨てるほどいるだろうけれど、七年は七年でも私のは、住む家も持たず、女房子も作らず、寝ては夢起きてはうつつ幻の、降っても照っても牌に命をすりへらすだけで、他のことは何もやらなかったのだから、馬鹿な話であるが、馬鹿馬鹿しすぎるところに今考えても捨て難い味がないでもない。
私は、ママ――八代ゆき以外にも、遊廓などの女を大分知ってはいたが、いつもどこかおどおどした形になっていた。身体の昂奮とはべつのところで、その昂奮を握り潰そうとしてしまうような意思が働く。
危険性のある面白い麻雀で生きようとすれば、その日暮らしになる。
金になる麻雀を打とうと思えば、自分の気質を殺して全くの男芸者と化さねばならぬ。
浮浪者は、こんな場合、つまり小金を握っているとき、酒を呑もうとは思わない。わずかの金で安堵して、ひっくり返って寝てしまおうとも思わない。そんな奴は本格的な浮浪者じゃない。
どう思うか。働こうと思うのである。なんとかして、この小金を増やそうと思うのだ。ひっくり返って寝てしまうのは、小金も何もかも無くなってしまったときである。そのときはそのときで、また平気で寝ちまうだけの話だ。
だがその手前のところでは、じたばたして金の命を明日へ延ばそうとする。そのじたばたがなんとも楽しい。わずかの金が、頬ずりしたいほど愛しくなる。嘘だと思ったら、地下道で暮してごらんなさい。
もう二度と自分は、かみさんを追い使って茶づけをかっこんだり、湯あがりで大の字に寝こんだりする暮しはできないだろう、とぎっちょは思っていた。
だが、そのかわり、今日からは何をしようと俺の勝手だ。この世界に遠慮するものは何もない。やりたいことをやってしくじったところで、くたばればそれでいい。
独立しては生きにくい。安全を求めれば仮の姿でしか生きられない。
この世にはその二つしか生き方はないので、したがって、ぎっちょに許された自由とは、ただふてくされることしかなかった。
何か非常に悪いことが起こりそうな気がしてじっとしていられない。このうえどんな悪いことがあるのかといわれても、猛然とそんな気がするのだから仕方がない。
手前っちは、家つき食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなってるんだろう。手前等にできることは長生きだけだ。糞ォたれて我慢して生きていくんだ。ざまァみやがれ、この生まれぞこない野郎
私はすっかり憂鬱な家出少年に戻っていた。ママ――八代ゆきに対するセンチメンタルな感情ははるか遠い所に去り、そのかわりに、大勢の足並みから離れて生きている不安感だけが残った。
私は無性に牌が握りたくなった。打って、そうして勝つことだけが、この惨めな気持を解消させてくれるように思えた。
二十年たった今はちがう。たかが玄人、と思っている。ひとつの真髄に触れるより、もっと大きな、綜合的な生き方があるような気がしてきた。これもまた所詮は中年になって、生き方の限界がいやでも悟られてくるそのあがきであろうか。
大体、内向型で絶えずいろいろなことをうじうじと苦にし、満足に他人と口を利くこともできないような子であった。アッと驚くような犯罪をやってしまう人間は平常おとなしい陰気なタイプが多いという。私は本質的には犯罪者型人間である。
いやになったというわけでもない。まァ、商売って奴が、なんとなく気に入らなくなったんだ。
女衒に限らずね。なんだか実のねえ生き方だ、どうしてだかわかんねえがね、俺は頭がわるいから
不幸じゃない生き方ってのは、つまり安全な生き方って奴があるだけだな。
安全に生きるために、他のことをみんな犠牲にするんだ
「あんたは子供だから、好きだの嫌いだのいってるけど、大人はそうはいわないわ」
「大人は、なんていってるんだ」
「さァね――、でも、きっと、もっと他のことで生きてるのよ」
平和日本の建設だってよ。だがごまかされちゃいけねえ。平和なんてこの世にあるものか。そんな言葉にのせられて、世間と仲よく手を握りあったつもりでいると、結局俺たちは喰われちまうだけなんだ。世間の上の方と下の方とは、喰うか喰われるかなんだからな。なァ、そうだろ